キリストの犠牲が新しい命を生む

8 weeks ago | nac news | in the group Japan (English)

なぜキリストは苦しみ、死なねばならなかったのでしょうか。それはもちろん、人々を神様に立ち返らせるためです。しかし理由はそれだけではないのです。

「キリストの犠牲」―これは国際本部で発行されている季刊誌Communityとドイツ国内で発行されている隔週誌Unsere Familieに最近掲載された、教義に関する記事であります。この記事は日本語版コミュニティの6号に掲載される予定です。2015年の礼拝指針特別第1号に、キリストの犠牲に関する論文が掲載されていますが、今回の記事はこの論文に基づいています。

キリストによる犠牲の重要性を理解するのは、そう簡単ではありません。「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなもの」と使徒パウロも述べています(一コリ1:18)。一見すると、すべてが敗北に終わったかのように思えるからです。馬鹿にされ、むち打たれ、恥ずべき方法で死刑に処せられたからです。

しかし同時にパウロはこうも言っています。「…ですが、私たち救われる者には神の力です。新使徒教会教理要綱に書かれているように「キリストの十字架は、罪深い人類に対して神がなされる様々な和解の働きかけを、縮図として」(3.4.9.9)示したのです。

神に近づく:古いものを新しく

救い―神様が愛によって人類にもたらそうとしておられる賜物―は、キリストによる犠牲によってのみ、はじめて可能であります。キリストの犠牲は、神様と人間との関係を、全く新しい土台の上に置きます。神様との別離を食い止め、神様と疎遠にならないようにします。

キリストによる犠牲の死を通して、人は神と和解したのです。コリントの信徒への手紙で使徒パウロが書いている通りです(二コリ5:17-19)。

キリストと体験を共にする洗礼

キリスト者は皆、特に洗礼を通して、キリストの犠牲と結びつきます。「洗礼を受けた者はイエス・キリストの死とその新しい命を共有する」(教理要綱8.1.6)。洗礼によって、生まれながらにして神様と疎遠であった状態に、まず終止符を打ちます。こうしてイエス・キリストとの新しい生活が始まります。

洗礼に与ると、信徒は罪と戦うために必要な力を引き寄せます。人が内面において新しくされる―そしてイエス・キリストに似た者となる―第一段階です。

聖餐は告白の食事

キリストの犠牲が最も大きな役割を果たすのは、聖餐です。このことはすでに聖別の言葉で表現されています。「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一コリ11:26)。

聖餐が執り行われる中で、イエス・キリストがまことの人であるがゆえに、苦しみの末実際の死を体験せねばならなかったことを、会衆は思い起こします(教理要綱8.2.8)。それだけでなく、この死が全時代を通じて一度しかないことであり、全時代を通じて有効であることを、公に告白します。

罪が赦される根拠

罪が赦される根拠は、十字架上でキリストが死なれたことです。イエス・キリストは御自分が死なれたことによって、悪しき者の力を粉砕なさったからです。以来、罪の赦し(二コリ5:21)と、永遠の死からの信徒の贖い(ヘブ10:18)が可能となったのです。

イエス様は使徒に、主の御名において罪を赦すための権限を与え、これを委託されました。

この罪の赦しを通して、人生のあらゆる状況において神様が恵みと憐れみをもって寄り添ってくださることを、信徒は確信します。

最も重要なのは信仰

キリストの犠牲からもたらされる神様の親しみを体験し、神様の救いを得るためには、信仰が必要です。信仰は、キリストによる犠牲の死がもたらす効力を引き出すためにも必要です。

人は自らの力で罪を消す方法を持ち合わせていません。イエス・キリストを信じること、そしてイエス・キリストが私たちの罪の代わりとして苦しみ、本来私たち罪人が受けるべき死を御自ら遂げられたことを、信じることによってのみ、私たちは罪を消していただくことができるのです。

キリストの犠牲を理解し、提供される救いを受け入れるために、信仰は必要です。信仰があってはじめて、サクラメントや罪の赦しが十分に効力を発揮するのです。

(4月2日nac.todayより)

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